(4)位山匠の道

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(4)位山匠の道

日本の古代の道路が国の制度の中にはっきり位置づけられたのは、大宝元年(701)に制定された「大宝律令」という法律ができたときです。
 和銅3年(710)平城京に遷都され、また律令の整備によって都を中心に全国を五畿と東海道・東山道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道の七道に分けられました。中央政府と各国府を綿密に連絡するため駅逓の制が定められ、30里「16km」ごとに駅(小路・馬5疋)を設け、駅には駅戸・駅田・駅長・駅子(役人)を置き官道としました。
 当時の東山道飛騨支路である位山古道の道筋は、現在の国道41号線ではなく、宮地域から苅安峠、位山峠を越え上呂へ抜ける道であったと考えられます。賦役令斐陀国令に定められ、都に上った匠丁達もこの峠を通ったと考えられます。
※30里:現代で1里というと4kmと解釈しますが、この律令という法律に従っていた時代は、約530mで1里という古代中国の規定を使っていました。
※官道(かんどう):古代の政府が整備した道路のこと。
※上呂(じょうろ):岐阜県下呂市萩原町上呂。

 近世に入り、飛弾を治めた金森長近は、城下町から発する街道の整備を行い、宮地域においては現在の国道41号線に近い「川内路」を整備しました。しかし、川沿いの「川内路」は増水などで不通になることもあり、明治時代に入っても多く利用される街道であったようです。

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